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宇都宮簡易裁判所 昭和38年(ろ)40号 判決 1964年3月31日

被告人 西島幸作

昭八・四・二八生 自動車運転手

主文

被告人は無罪。

理由

起訴状及び訴因変更請求書の記載によると本件公訴事実は「被告人は自動車運転の業務に従事する者であるところ、昭和三七年八月一五日午后一時四〇分頃普通貨物自動車を運転して鹿沼市千渡一、七六四番地先道路を時速約五〇キロメートルで同市上野町方面に向け進行中前方を同一方向に向けて進行していた金子光明の運転する軽自動二輪車の右側を追い越すに際し自動車の運転者としては警音器を十分吹鳴して前車に警告を与えることは勿論前車の動向に注意し臨機の措置を講じ得るよう減速した上両車の間隔その他交通の安全を確認して追い越すべき業務上の注意義務があるのに之を怠り警音器を吹鳴せず漫然同一速度で進行した過失により自車の前部を先行車である金子光明の運転する軽自動二輪車の車体に衝突せしめ因つて同人に対し全治約三ヶ月を要する頭部挫創等の傷害を負わせた」というのであり、検察官は被告人の右行為は刑法第二一一条の業務上過失傷害の罪に該当するとして本件起訴をなしたものであるところ、右公訴事実中被告人が自動車運転の業務者である事実、被告人がその日時その場所において時速約五〇キロメートルで貨物自動車を運転中先行する金子光明の運転する転自動二輪車に衝突し之を転倒せしめ右事故により金子光明が少くとも全治三ヶ月を要する頭部挫創等の傷害を負つた事実、被告人が事故直前において警音器を吹鳴せず又減速措置を講じなかつた事実及び金子光明が方向指示器若くは手によつて右折の合図をしなかつた事実について当公判廷に提出された証拠によつて明白であるが(被告人も之を争わない)右衝突事故が被告人の業務上の注意義務の解怠に基くという事実即ち被告人が当時業務上の注意を怠りそれによつて金子光明に傷害を与えた事実については之を認定するに足る証拠がない。尤も被告人は司法巡査に対する供述調書中「この事故は被害者(金子光明)が少し減速したときそのまゝ追い越しできると思つたのが間違いで私の方もあのとき徐行して被害者の動向を確めてクラクシヨンでも鳴せば良かつたと思つて居ります」と供述し被告人の検察官に対する供述調書中「この事故の原因は私がその二輪車に追従して進行していつた際急にその車がスピードを落したので私はそのまゝ進行して相手の車の右側を追い越して行けるものと思いその儘の速度で進行したのが落度だつたと思います。私が相手の車が減速したのを認めた距離は約一一メートルで次第に接近して来たのですが先行車に追従するに際しては先行車の動向をよく注意し何時急停車又は方向転換などをしても之に応じた措置がとれるだけの安全な車間距離を置かねばならないのに私はその距離を置かなかつた事になります。私は時速約五〇キロメートルを出していたのでもつと距離をはなし追い越しの場合は特に相手の車の動向を確認して進行すべきでありました。特に今度の事故の場合は相手の車が減速したことが判つていたので何か変つた動向に出るかもしれないということは予め予期できたのですから若しその儘進行するのであればクラクシヨンを鳴らすべきであつたと思います」と述べ被告人は自から自己の注意義務懈怠を認めている如くであるが、それは被告人の単なる主観的意見に過ぎないのであつて、これによつて直ちに被告人に業務上の過失ありと認定するわけにゆかないことは論を俟たない。被告人に業務上の過失があつたか否かの認定は事故当時の道路、交通の状態事故当事者双方の運転状況等を客観的に把握してその具体的状況からその衝突事故は通常の運転業務者にとつて予見し得べきものであつたか否かを判定し、若し予見し得べきものであれは之を回避する措置を講じなかつた被告人に業務上の過失ありというべく反対に予見し得べきものでなければ被告人には之を回避する手段なく業務上の過失が存しなかつたことになるところ、本件衝突事故は以下詳述するように事故当時の具体的事情から通常の運転業務者にとつては予見し難いものであつたと考えられるので被告人に業務上の過失の責任を問うことはできない。

さて司法警察員作成の実況見分調書の記載(補充的には当裁判所の施行した現場検証に関する検証調書の記載)及び証人金子光明、同長山征和の各証言並びに被告人の司法巡査及び検察官に対する各供述調書の供述記載を綜合判断すると次のような事実が認められる。

本件事故の発生した道路は宇都宮市と鹿沼市を結ぶ県道であつて事故現場附近では東西に走り有効幅員約六・三五メートルでアスフアルトによつて舗装され中央に白線でセンターラインが標示されている。道路北側は畑地で家なく県道は畑地より約六〇センチメートル高く段落をなしているが衝突地点より約四メートル手前(東)の道路北側に鹿沼市仁神堂町方面に向う有効幅員約二メートル三〇センチの道路が稍斜めに交叉し、県道の路床が高いため右道路は接着点では北に向つて降下している。又県道南側には衝突地点より約二〇メートル手前(東)に有効幅員約三メートルの同市深津方面に向う道路が交わつている。

県道は事故現場附近では直線で曲折なく且平坦で見透も良好である。

なお当日は天気は晴で事故現場附近では本件事故に直接的な関係をもつような人車の交通はなかつた。金子光明(昭和三七年五月七日軽自動車の運転免許を受けている)は軽自動二輪車を運転して本件県道を宇都宮市方面から鹿沼市上野町方面に向つて時速約四〇キロメートルで西進し道路左側端附近に進路をとつて事故現場附近にさしかゝり、被告人(昭和二八年七月に自動三輪車の、昭和三五年一月二九日に普通自動車の運転免許を受けている)は普通貨物自動車を運転し時速約五〇キロメートルで同道路を同一方向に向い進路を道路の中央ライン附近にとつて金子の先行車より稍後れて進行したが両車の速力の差により次第に両車の前後距離が縮まり事故現場附近では両車が併進するような状況にあつた。検察官は訴因変更後の公訴事実において被告人の後走車が事故現場附近で金子の先行車を追い越そうとしたと認定しているが「追越し」とは道路交通法第二条第二一号において明確に定義付けられているように後走車がその進路を変えて追いついた先行車の側方を通過し且その前方に出る場合であつて本件は先行車と後走車との車間間隔(両車が併進する場合の左右の間隔。以下同じ)が約一メートルもあり夫々の通行区分を進行しその速力の差によつて自然に(何ら進路を変更することなく)先行車を追い抜くことができるのでこの場合は同法に謂う「追越し」ではない。概念の混乱を防ぐためこのような場合を「追抜き」と称して「追越し」と区別する。(訴因変更前の公訴事実はこの点については正しく「追抜き」と認定しているが被告人の後走車が金子の先行車を追い抜くに際し先行車と接触しないよう十分な間隔をとつて進行すべき業務上の注意義務があるのに被告人は之を怠り先行車に接近し過ぎて進行した過失により云々として十分な車間間隔を取らないことに過失を認定していたが証拠上その車間間隔は約一メートルあり之は一般に接触する危険のない相当な間隔と考えられこゝに被告人の過失を認めがたいので訴因の変更を余儀なくしたものと思われる。)

さて本件の場合の如く先行車と後走車の車間間隔が十分であり双方とも自己の通行区分を守り両車の速力の差によつて「追抜き」が行われる場合にも公訴事実の如く後走車を運転する被告人に警音器吹鳴並びに先行車の動向に応じて臨機の措置をとり得る程度の減速措置をなすことが業務上の注意義務になるか否かについて考えるのに、所謂「追越し」の場合は後走車はその進路を変更して先行車を追い抜くのであるから一般的に言つて先行車との車間間隔が十分とれず両車間の併進関係が複雑であるから後走車は警音器を吹鳴して「追越し」運転に移ることを先行車に警告し先行車に用心させて後「追越し」をなすべきであり先行車が後走車の「追越し」を認識するまでは先行車の動向に応じた臨機の措置をとり得る程度に減速すべきであるが「追抜き」の場合は一般に両車の併進関係は単純であり特に本件の如く車間間隔が十分の場合は特別の事情のない限り警音器の吹鳴の義務もなく減速措置をとる義務もないと考えられる。若しこのような「追抜き」の場合も警音器吹鳴の注意義務ありとすれば即ち道路交通法第五四条第二項但書の危険を防止するため止むを得ない場合と解しなければならないとすると道路交通法が騒音防止のため特に新たに加えた同法第五四条第二項本文の規定が無意味になり国民は再び警笛騒音の苦悩をなめることになる。

而して仮に本件の如き場合においてもなお警音器吹鳴の義務ありとするもこの場合の警音器吹鳴は「追越し」の場合と異なり単に後走車の存在に気付かない先行車にその存在を告知する趣旨を出でないと解されるところ、本件においては先行車の運転者である金子は先行車のハンドルに設備されている二個の後写鏡によつて被告人の運転する後走車がセンターライン附近に進路をとつて約一一メートル(金子証言では後方七メートルと述べているが被告人は約一一メートルの前方で金子が減速したと述べているところ先行車の後写鏡による認定より後走者の肉眼による認定の方が信用できる)後方に進行していることを既に知つていたので重ねて被告人は警音器を吹鳴して自車の存在を先行車に告知する必要なく警音器吹鳴の義務はなかつたと考える。又追抜きの際の車輛の併進若しくは併進直前の状態は道路交通の安全性からみてなるべく速かに解消すべきマイナスの状態であるから被告人がこの場合減速すれば併進若くは併進直前のマイナス状態が更にいつまでも持続されることゝなりむしろ不適切な運転であることになり(この意味で後にのべる如く金子が追い抜き待ちのため減速したのは適切である)本件のような「追抜き」の場合は後走車の運転者である被告人には減速措置をとる注意義務がなかつたと考えるべきである。

尤も先行車が常に合理的な運転をするとは限らず何らかの理由で意外な暴走をなすことがあるのは事実でありかゝる事実から後走車の運転者に何等の前徴もないのに常にかゝる暴走あることを予見し之を回避すべく常に減速の措置をとる義務ありとすれば「追抜き」そのものが不可能になりかくては却つて自動車交通がマヒし引いては高速度を生命とする自動車交通の意義が抹殺されることになるので所謂「許された危険」の範囲に属するものと解すべきである。

又訴因には具体的に明記されていないが公訴事実の全趣旨から被告人の業務上の過失は本件事故現場には前述した如く道路北側に鹿沼市仁神堂町方面に向う道路が交叉して居りその手前で先行車の金子光明が減速しているのであるから後走車の被告人は先行車が左折の会図をしなくても或は仁神堂町方面に向うべく進路を右に転じて右折することあるべきを予測し、その場合は両者が衝突する危険が生ずるので之を回避するため、警音器を吹鳴し先行車の動向に応じて臨機の措置をとり得る程度に減速する注意義務があるのに被告人は之を怠つたという趣旨に解されるので、更にこの点について検討するのに、先行車の金子光明が衝突地点の手前で減速した事実は金子光明の証言にもあり証人長井征和も証言中之を目撃したと述べ又被告人自身も供述調書中約一一メートル前方で金子が減速したのを認めたと述べて居り動かし難い事実であるところ(被告人がこの事実を始めから認めて居るのは被告人が先行車の動向に注視することを怠つていなかつたことを示すものである。)而して司法警察員作成の実況見分調書記載の如く金子が減速した地点は仁神堂町方面に向う道路の手前約六メートルで被告人の後走車前方約一一メートルの地点であり、仁神堂町方面に向う道路は本件県道北側において之と交叉していることは前示の通りであるから、後走車の運転者である被告人には外形的にみれば先行車の運転者である金子が特別に右折の合図をしなくても前記のような滅速をなしたことによつて之を同人が仁神堂町方面に進路を転じて右折するための準備行動と看取し、金子が右折するかも知れないことを予見し、右折の場合は両車が衝突する危険を生ずを虞れがあるので之を回避するため、警音器を吹鳴して先行車に警告を発すると共に先行車の動向に応じて臨機の措置をなし得る程度の減速措置を講ずる業務上の注意義務が存するように思われる。(事実交通係司法巡査柏谷明男もその証言においてその点に被告人の業務上の過失を認めている)然しながら金子証言によると先行車の運転者である同人は当時県道を上野町方面に向つて直行する意思で運転し仁神堂町方面に向う道路に右折する意思も又はその地点でUターンする意思も全然なかつたと述べて居り(右証言は金子が右折の会図をしなかつたこと及び本件衝突地点が司法警察員作成の実況見分調書の記載によつて明らかな如く右交叉道路より約三メートルも先であることと符合して信用することができる)又同人が当時なした減速は従前の時速約四〇キロメートルから時速約二五キロメートルに減速したと述べ(右減速の程度は後走車の時速は約五〇キロメートルであり前記実況見分調書の記載によつて明かな如く後走車が先行車の減速を認めた地点から衝突地点まで約二三メートル、先行車の減速地点から衝突地点までは約一二メートルであつて時速五〇キロメートルの後走車が約二三メートル進む間に先行車はその半分である約一二メートル進んだことになるところ計算上先行車は減速によつて後走車の時速の半分約二五キロメートルになるので減速の程度に関する金子証言は信用することができる)更に同人が右のような減速をなしたのは右折若くはUターンの準備行動としてではなく後写鏡によつて後走車が県道センターラインあたりを進行して次第に先行車に接近するのを認め「追抜き待ち」の意味で減速したと述べて居り(先行車は前示の如く県道を直行する意思であつたし減速しても時速二五キロメートル出ていたことは右折若くはUターンの準備行動としては過少な減速であるから「追抜き待ち」の意味で減速したとの金子証言は信用することができる)以上述べた先行車の運転意思は具体的にその運転挙動に体現される訳であるから後走車を運転し先行車の動静を注視していた被告人が右折の会図をしなかつた先行車は右折又はUターンすることなく県道を直行するものと予想したその予想には何等の狂いもなく又その予想に基いて警笛を吹鳴することもなく減速措置をとることなくそのまゝの速度で直行しても無事に先行車を追抜くことができると判断したその判断には毫も誤りなかつたことに帰する。かく本件を内容的に検討すると被告人には警笛吹鳴、減速措置という注意義務は存せず之をなさなかつたということで被告人が業務上の注意を怠つたということはできない。

以上の如く被告人には如何なる点からも業務上の過失があつたとは考えられないところ、本件事故の原因が被告人の過失に基ずかないとすると本件事故は如何にして発生したのであるか最後にこの点について考察する。

前示の如く先行車後走車は十分な車間間隔を置いて進行していたので両車がそのまゝ直行すれば衝突事故は発生しなかつたのであるから追い抜きの際後走車の被告人が進路を左寄りに転じたか先行車の金子光明が進路を右寄りに転じたかそのいづれかでなければならないところ、金子証言では被告人が進路を左寄りに転じたので追突したと述べているが、前記実況見分調書の記載特に路面擦過痕やタイヤのスリツプ跡の位置及び事故目撃者である証人長山征和の「金子がUターンするように急に被告人の進路上に突入した」との証言によつて後走車の被告人は何等進路を左側に変えることなく直走したのに金子光明が仁神堂町方面に向う道路との交叉点を稍過ぎた地点で急にハンドルを右に切つて被告人の進路に突入したものと認められる。而して先行車の運転挙動から直行するものとのみ信じていた被告人は金子の突然の突入に之を回避する由なく両車が衝突して本件事故が発生したものと考えられる。右折やUターンする意思なく県道を直行する意思で「追抜き待ち」の減速までした金子光明が何故突如進路を右寄りに転じたかその真の理由は判然としないが、金子証言中「後走車が斜め後から接近して来たとき何気なく後を振り返えつた。そして振り返えつた瞬間に衝突した。」との趣旨の証言があり同人は運転免許を受けてから事故当日まで僅か三ヶ月余りで運転操作に熟練していたとは考えられないので後走車を振り返えつた際無意識裡にハンドルの操作を誤り進路を右に切つたような運転になり被告人の進路上に突入したのではないかと推測される。尤もそれは単なる推測に過ぎず真の理由は証拠上不明という外はないのであるがこのことは被告人の過失の存在の有無とは別個のことである。(長山証言では金子が再び宇都宮市方面に県道を逆行するため事故現場でUターンをしたと思うと述べているが同証言中その部分は推測的事実が多く、そのまゝ之を真実として信用することはできない。)

結局証拠上被告人には本件自動車運転において業務上の注意義務を懈怠したとの事実は認められず金子光明の本件事故に基く傷害が被告人の業務上の過失に原因していると認むべき証拠が存しないので被告人にかゝる本件被告事件について犯罪の証明がないことに帰する。よつて刑事訴訟法第三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。

(裁判官 武本俊郎)

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